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前々からお悩みのご様子を拝見して書き込んでしまいました.
いくつか思いつくことを書いてみます.
1.学年が上がるときにクラスが変わるのであれば
今のクラスとはあと1ヶ月半のつきあいですので
来年度以降はましになる可能性がないでしょうか?
そういった希望があるならそれを頼りになんとか
日々をやり過ごすことができないでしょうか.
2.また,子供というのは人と成る(成人)前なので
善悪の区別がなくおもしろいからという理由だけで
犯罪や他人を傷つける事を簡単にしてしまうように思います.
逆に言えばそれがどうして悪なのか,他人にどんな悪を与えるかの
想像力,経験がないということだと思います.
これはつまり,彼らは彼らの行為をあなたにそれだけの影響を与える
とは考えずにやっているのだと思います.
これを彼らに知らせるわけにはいかないでしょうか?
男子生徒はそれがわかるとかえっていじめが激しくなるかも知れません.
しかし,女子生徒はある程度守る方にまわってくれるように思います.
これはうまくいくかどうかわかりませんが.
3.信じるということは狂気と背中合わせですが,
(例えばオウム真理教の事件などは教義を信じるが故の狂気でした)
その一方で幸福ではあるようです.
良い例で言えば
何でも信じるものはお持ちでしょうか?
「-しか信じられない」ではなく,
「-を信じる」といった能動的なものです.
信じるものがあるなら時々それを思い出しては
いかがでしょうか.
特にあなたは教師になりたいという意志をお持ちのかたですから
おそらく,その根元には信じるものがあるのだと思います.
例えば,子供を正しく育てたいといった信念をお持ちなら
今こそそれを実行する機会と捉えることもできます.
また,教育とは関係のない信をお持ちであればそちらに関係する
職業に就くという考え方もあると思います.
4.
お見受けしたところまじめな方のように思われますが,
そのために,すべてを自分で引き受けてしまっているようにも思います.
「-しなければならない.」と言われる事は別にしなくてもかまいません.
やや適切ではないかも知れませんが,
例えば法律には「人を殺してはいけない」とは書かれていません.
実際には「人を殺したものは懲役-年以上-年以下」のように書かれています.
従って別にしなければならないことをしなかったからと言って
法律に記された以上のことは要求されません.
それ以上にあるのはあなたの自責のみです.
時効で逃げ延びる厚かましいやつもいるのですから
社会的な制裁以上に自分を責めることはしなくていいと思います.
以上はたとえとして法律をだしたのですが
要約すれば責任を感じすぎる必要はないということです.
逃げてもいいんです.
学校の中でも自分の精神を保つために
他の部分(生徒の前の先生らしさなど)を捨ててもいいのではないでしょうか.
5.
また,他には,教師にこだわらずに塾の講師ではダメでしょうか?
これは私個人の感覚で申し訳ないのですが,
学校の教師というのは「教師」という名前,あるいは学校という組織に縛られて
自由な教育というものができないように思われます.それに対して塾というのは
その経営者の信念と自分の信念が合いさえすれば自由度も高く,
本当の教育というものが行えるように,私個人はおもうのですが.
従って安定性という要素を除けば私は塾の講師の方がいいように
思っているのですが.
従って,私にとっては塾の講師の方が本職で
学校の教師が安定性のための逃げ道ですが,
そんな逃げ道(あなたにとっては塾の講師など)を考えてみては
いかがでしょうか?
自分の体をこわしてまでする仕事というのは
正しい仕事のあり方のようには思えません.
現代の日本は仕事に意味をおきすぎているように思います.
古代,仕事は生きるための狩猟や耕作にしかすぎませんでした.
それが西欧ではルネッサンスや宗教改革を経て
今の仕事中心の人生観ができたそうです.
(この辺は「仕事の裏切り」という本を読まれると良いかと思います.)
アフリカの原住民に農耕をさせようとしたときに
その原住民に言われた言葉だそうです.
「世界にはモンゴモンゴの実がまだこんなにあるのに
どうして植えて育てなければならないんだ?」
欲さえ少なくしておけば暮していけるように思います.
≪規約同意済み≫
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