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▼ガラスさん:
今ちょうど、ガラスさんのお尋ねのお気持ちになりました。
というものの、思い出したということなのですが…
身内の葬儀の為、仏壇で数珠と風呂敷を出す間、どうして置いてかれた
んだろう、今からでも一緒に連れてってほしいと、そう思いました。
ちょうど一年少し前、親が死んだ時、あまりにも色々な事が辛くて
腹が立つやら悲しいやらで、何度も何度も後を追う気持ちになりました。
でも、結局…、生きることに決めたのですが、今でも身内の葬儀などが
おきると…頭が混乱して悲しくなります。
悲しい、この気持ちは私なりの言葉では、その人への愛着が起こす気持ちが
心をきゅーと引き絞るように思います。
必要というのも、その人へ自分がどれだけ気持ちをこめてみているか
だいじにしているかということだと思います。
今、私もたぶん本当の意味では誰にも必要とされてはいないです。
身内にとっては、私はある種の管理人のようなものですから、いないと
困るな程度。
恋人も取り合えずいなくなれば哀しむでしょうが、でもいつかは忘れます。
時が私のいた存在を押し流してしまう。
でもね、誰も必要としてくれなくたって、私は生きていたいです。
だって、私自身が私を必要としているから、生きたいと願うから。
そして、もう一度、今度は自分が必要とされるひとになりたい。
小さくてもいい、愛して愛される家をもう一度作りたい。
まだまだ先は遠くて、道は薄暗く足元も覚束ないけど、いつかもう一度
そういう幸せを得たいと思います。
もう一度、あなたも愛を始めて見ませんか?
必要とされる人間になるために、まずは慈しむことから始めましょうよ。
身の回りの人・ものに慈愛を注ぐことで少しずつ変化はおきるはず。
せっかく生まれてきた命、この世の大地に根付かせましょう。
諦めたらそこでお終い、そんなの悲しいじゃない。
「愛」という夢を追うのも、きっと心を満たしてくれるはずですよ。
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