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もすさん、こんにちは
僕は「自分」というものには、2種類あると思います。
それはたとえれば、運転手と車のようなものだと思います。
運転手に個性があるように、車にも個性があります。
人間というものは、肉体という車に、魂(意識)という運転手が乗っています。
動物や植物の場合は、ほとんどが本能という自動操縦で車が動いていますが
人間の場合は本能よりも自由意志による手動操作で動かさなければいけないので
高度な運転技術が必要ですが、大部分の人は、車のしくみを知らずに、無免許運転をしている状態だと思います。
人間の体には、視覚、聴覚、臭覚、味覚などの感覚器官が「触感」によって体の外部や内部からの刺激を受けて、「心」というものを形成しています。「心」は車のハンドルのようなものです。
そして運転者つまり魂(意識)は、正しく安全な運転を導くカーナビのようなものです。
「心」は、カーナビのガイダンス(声鳴き声のフィーリング)を感じ取って、同時に感覚器官からの情報も受け取りながら、運転をしていかなければいけませんが、
もし魂からの印象に心の耳を澄まさずに、感覚器官の刺激(怒り、悲しみ、ねたみ、焦りなど)に振り回されてしまうと、いつしか道に迷ったり、交通事故を起こして自分や他人を傷つけてしまうことになります。
そうやって、本来の主人(カーナビ)である魂の声を無視して、肉体の感覚を主人にして運転しようとする心を「エゴ(我欲)」といいます。
人間が、本当の自分(魂)から来る印象に従って生きようとするとき、その人は自分を大切にしていると言えますが、肉体の感覚を主役にして生きようとするとき、その人は自分を粗末にして生きていると言えます。
これは、修行僧などがするように、肉体の欲望を抑制すること(禁欲)ではありません。車にエンジンの馬力があるように、欲望というエネルギーは運転手のハンドル操作にコントロールされて本来の役割を果たせて、活用されるべきものですが、
コントロールを失って、欲望だけが暴走してしまっては周囲の迷惑になるだけです。
魂。。それを僕は「宇宙の意識」と呼んでいますが、宇宙の意識は、海に浮かぶ氷山のようなもので、個々の人間の意識に分かれているようでも、海面の下ではひとつにつながっています。そこに「自分と他人」という分割は存在していません。
ですから、宇宙の意識は、自分も含めた「全体」のために働こうとします。
それとは対照的に、意識の声を見失った肉体の心は、自分のためにだけ働こうとします。
意識の声に従うことは、本当の意味で「自分をなくす」ことです。本当の意味で自分をなくしたときに、自分が一番「生きる」ことになります。
それは自己犠牲でも無償の愛でもありません。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というように、
エゴのこだわりを捨てたときに、宇宙の大海原に浮かぶことができるのです。
自分を大切にすることとは、自分も含めたすべてを大切にすることです。
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