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BIRDさん、以前のレスでは本題と関係ない指摘をしてしまい、もうしわけありませんでした。
そして、またお話ができることをうれしく思います。
確かに宗教には「心の支え」としての側面もありますね。
基本的に人間は二面性を持っています。
弱い心と強い心
優しさと残虐さ
愚かさと狡猾さ
など・・・
その中のプラス面は、認めやすくとも、マイナス面は認めにくいものです。
自分の可能性を信じ、逆境に負けない自分でいるための「宗教」もあっていいと思います。
しかしながら、僕には社会に貢献し、自他共に幸せになっていくという考えは、少し抵抗があるのです。
全ての人々が幸せになっていくというのは、大変すばらしくそうなっていきたいと思います。
しかし、「社会に貢献」という部分がどうも受け入れられないのです。
「貢献」とは、貢ぎ物を献上するという意味があり、そこから何かのために力をつくし寄与(贈り与えること)することに繋がります。
それは、「自分が外の世界から人々のために何かをしてあげること」としか受け取れないのです。
僕は以前、真言宗での修行をしたことがあります。
これは、僕のHNの由来にもなっているのですが、みんなと一緒に苦しみながらも幸せと喜びを分かち合いたいと考えたため、修行をやめたのです。
外の世界から、力を尽くすだけでは何も変わらないと判断したためです。
確かにBIRDさんの仰る通り、自分にとっては「心の支え」となり得ると思いますが、それが「自他共に幸せになっていく」ということには繋がらないと思います。
「心の支え」が「自他共に幸せになっていく」ことに繋がる時、「勧誘」になるのです。
「心の支え」が自分の心を強くしていく。
そして強い心を持って一緒に苦しみ、悩み、解決しながら喜びや幸せを共に見つけて行くことこそ、大事なのではないでしょうか?
そして、その時には宗教は必要ではなく、強い心を持って共に歩んでくれる「人」が必要になるのではないかと思います。
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