|
▼miss匿名さん:
>≪厳しい意見はご遠慮ください≫
>
>
>皆さんは毎日毎日生きていることを感じていますか?
感じます。感じています。
私は3年以上前にガンの摘出手術をして、ほんのちょっとの差で命拾いしました。
特にそれからは、一瞬一瞬が、生きていることの感謝の連続です。
今週は、ベストセラーの映画化に関わっています。
今日は、出演シーンもあり、これから出かけるところです。
二日前には、アカデミー賞受賞俳優と話をしたり、握手をしたり、そのベストセラーにサインもしてもらいました。
>感じて幸せだとか、この先いいことが待っていると思えますか?
今はある意味、定職がないようなものですし、生活も厳しいですが、幸せを感じています。この先のことは分かりませんが、自分の人生は自分の作品だと理解しています。自分が作者であり、自分の人生が自分の代表作品です。
幸せを感じたければ、幸せを感じるしか方法はありません。
誰でも、今まで生きてきたのは、自分がそう生きることを決めて選択してきた結果(集大成)だと思います。
>
>私は今まで決められたレールの上をはみ出さないように、キチンと
>真面目に進んできました。それりゅちょっと遅れたりはしましたが、
>決められたことをこなして来ました。
>けれど、それはまるで工場のラインのような人生でした。ただその
>ラインの上にのってただ歩いてきただけの人生。ワクワクもしない
>し、ドキドキもしない、自分なりの充実したものなんかではなかっ
>たように思います。
そういう人生を生きて来たのは、自分がそういう生き方を選択して来たのだと思います。「いや私が選択したのではなくて、社会や親が決めたことだ」と言うかも知れませんが、事実は、瞬間瞬間の生き方は自分が決めて選択してきた連続なのです。レールの上をはみ出さないように進むためにも、自分で気を付けて「レールからはみ出ない」ことを選択していたのです。それも自分の生き方を自分で決めて実行してきたことです。
>きっと最期の時も、葬儀屋が決められたとおり埋葬してくれるよう
>な味気ないもののように思います。何人かは泣いてくれるでしょう
>がそれは工場ラインとに決められた過程で泣くのだろうと思います。
miss匿名さんの人生はmiss匿名さんが決めることです。
人は、自分の信念を実現するように生きるのです。
自分はつまらない人生を生きることになっていると信じていれば、それはその通りになるでしょう。それは自分が自分の信念によってそうしているのです。
私がガンで死んでいたかもしれないように、試練のようなテストは何度もあるでしょうが、それをどう自分で扱うかが、自分がどう生きるかを決めることのように感じます。そういう試練に負けて、自分の人生には苦しい事悲しいこと嫌なことばかりが起こると思い込むと、それが「信念」になって、自分の人生をそういうものにしてしまいます。
すべての経験は自分の成長のための栄養剤のようなものだと感じて感謝して生きると、どんな状態でも感謝できるようになるし、実際に自然に感謝できるようなことがどんどん自分の人生に起こるようになります。
「今の自分の状態は悲惨な状態なので、将来良くなるように感謝するふりをして生きよう」という思いが本心だとすると、それでは「今、悲惨な状態だ」という信念から出られません。なぜなら、人は「今」しか生きていないからです。「今」以外には生きられないのです。将来幸せに感じたいなら、今幸せを感じるしかありません。
私は、ほんの薄皮半枚で命拾いして、生きる瞬間瞬間がプレゼントのような「お恵み」のようなものだと実感しますが、実は、ガンを告知される前の一瞬一瞬も「お恵み」だったのに気付きました。当時ただ気付いていなかっただけで、ガン手術前の人生も後の人生も同じく私の人生だったのです。
私は、両親も亡くなり、姉の一人も亡くなりましたが、そういう経験も私にとって良い経験だったと思います。失恋も幾度かしましたし、それも良い経験でした。離婚もしましたし、それも良い経験でした。二人の子供達とも、良い関係だと思っていますし、子供達の母親ともそれなりに良い関係だと思っています。
人との関係をどういう関係にするかも、自分が決めて実行することです。
自分が誰かを解釈する解釈の仕方は、自分の内部から出てくるものです。
「あの人は、表面では良い人のように見えるけれど、心の中では何を考えているのか分からない」と思う人がいるとすれば、それは、自分が「あの人」のように行動するときは、自分は「良い人」を演じているだけで、心の中では別の気持ちでいる、ということを表しているだけのことです。
>
>皆さんは心のそこから、人生が楽しいとか、この先いいことが待
>っていると思うことがありますか?
私は、他の人については分かりませんが、私自身のことを言えば、心の底から「人生の一瞬一瞬が面白い」と実感しています。「楽しい」とはちょっと違うかも知れませんが、「非常に面白い」と感じ「感謝」しています。その中には、楽しいこともあり、悲しいこともあり、喜びもあり苦しみもありますが、すべてが「面白い」ことです。こんな面白い人生は、自分から捨てることなど考えられません。
私の人生は私が監督で私が振付師で私が主演で、脚本も私が書いているのです。ワンマンショーで、周囲の人々は、私の人生劇については、脇役でしかありません。脇役に引きずり回されるかどうかも私が決めて実行するしかありません。結果的に面白くないものになったとすると、それは私だけの責任です。
少なくとも、結果的に面白くないものになるかも知れないけれど、その過程の一瞬一瞬を楽しめれば、それも楽しい制作過程になるでしょう。楽しみながら作っていれば、結果をだれか他人が見て、つまらない人生劇だと思ったとしても、自分は自分なりに最後に「ああ、面白かった」と満足できるでしょう。私にとっては、そういう満足感があれば、それが最高だと思います。
>そして生きていて意味がある、存在していて意味があると思いま
>すか?
生きている意味や存在している意味は、自分が与えるものだと思います。
私は、私の存在自体は、「存在そのもの」という「源」から来たものだと思うので、それは歓びそのものです。存在の事実、存在の本質そのものでは、私はすべての存在するものと一致しています。繋がっています。miss匿名さんとも繋がっています。疑問も感じません。
miss匿名さんがこうして書いてくれたからこそ、miss匿名さんの存在を意識できましたし、こうしてコミュニケートすることにもなりました。私の感じ方を書く機会にもなりました。感謝しています。そのように、人生は「非常に面白いもの」です。やめられません。
>≪転載承諾≫
>≪転載承諾≫
≪転載承諾≫
|
|