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▼イエスさん:
>≪厳しいアドバイスはご遠慮ください≫
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物騒な犯罪が多いとは言っても、そういう犯罪に遭遇する人は非常に少ないだろうと思います。
物騒な犯罪よりも、だれかに騙されて金銭的に損をするような犯罪行為に遭遇する機会の方が多いのではないでしょうか?
詐欺師は善人にも見えそうな人が多いのではないでしょうか。少なくとも悪人に見えるような人なら、騙される人も少ないだろうと思います。
善人が多いか少ないかは「善人」をどう理解するかにも関係するだろうと思います。
私は、大多数の人には、善人的な部分も悪人的な部分もあるだろうと思います。
「誰にも見られないなら何をやっても良い」とか「旅の恥は掻き捨て」とか「他人に迷惑が掛からなければ何をやっても良い」とかいうような感覚は、悪人的な感覚だろうと思います。そして「良心」と言われる感覚は善人的な感覚ではないでしょうか?
「他人に迷惑が掛かっても自分の利益になるならやる」というのは悪人でしょう。そういう悪人ではないなら「善人」だと思う人もいるでしょう。いつも良心に従った言動をする人は、自分なりには悪人だと自覚していないでしょうし、自分のことを善人だと思っているかも知れません。結果的に他人からも善人と見られるかどうかは分かりません。
だれから見ても善人だと思われるような人は、自分が「善人か悪人か」というようなレッテル付けには興味のない人だろうと思います。善人だと思われたいなどとも思わないかも知れません。そういう本当の善人は希少価値がある存在でしょう。
そのように考えると、普通の一般人は特に「善人」でも「悪人」でもない「小市民」だろうと思います。大きな善もできなければ大きな悪もできないだろうと思います。
「善人・悪人」で思ったのは、親鸞さんが言ったと言われる、「善人が救われるなら、悪人なら当然救われるだろう」というような意味の言葉です。善人が善人でいられるのはただ幸運なだけで、悪人が悪人になってしまうのはやはり不運なだけで、苦労している分だけもっと救われる可能性が大きいというような意味なのではないかと思います。
私は、自分が「善人か悪人か」に拘るよりも、自分なりに自分らしく生きれば満足だと思います。それで充分です。
≪規約同意済み≫
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