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シリアスさん、こんばんは。
「自分自身以外にそれを救える者はいない」
多分、いやと言うほど聞かされてきたと思う。結局、全てはそれしかないの、どうやって誰か助けてっていっても、死ぬまで誰かが「変われる保障があるかないかも不明な不安定な」ワタシを守り通してはくれないの。辛いですよね、苦しいですよね。誰かに嘘だ、私ならばあなたを生涯何があっても幸せにできるよって言って近寄ってきて欲しいですよね。
私がシリアスさんのように世界中信じられず恨み尽くし嘆き尽くし、自分自身の事もいやだいやだと叫びごねつづけ、聖なる存在にのべつまくなしに救いを求め続けた挙げ句どこでそれをどうにか止める決定的なきっかけ―――その「自分にしか救えない事実」を泣きながらでもどうにか受け止めようと思えた出来事、がいつどこであったのかは正直あまり思い出せません。
ただ、分かる事といえば自分の生き方の何かに
私自身にGOサインを出していいのだ
とある時気付かされ、恐る恐る「手を出した事で又不幸がやってくるかも知れぬ不安」で覆い尽くされない前にちょっとだけ自分の手によってそのものに触れた事、かもしれないということです。
つまり私も、所詮は「誰かから救ってもらった」のでは結局無かった。
あれほど嫌で世の中で最悪最低最下層だと信じきっていたワタシを地獄と言う崖に落とさなかったのは・・・・・・・悲しいかな、よその誰かではなかったんです。
それは私の中に、シリアスさん以上の素晴らしい愛の心や他者の愛の手が偶然があったから、とは思えません。だって、その時ですらも「どうして自分で立ち上がろうとしているんだろう、誰かの助けが欲しいのにどうして得る事が出来なかったのだろう。所詮わたしが最悪だからなのだ」と最初に感じられ、瞬間は辛すぎてやはり世を嘆き泣き崩れましたから。それは素晴らしければ逃れられるとか、幸せならば自力でなくとも得られたとか、そういうものでは結局無くて人が人であるがゆえの悲しい生きる作業の工程なのだと気付けるまでにも、相当かかりました。
今の私に言える事は。
誰か助けて、と言っている自分はもしかしたらその際近づいてくれた人に「良かった、別にあなたじゃなくても良かったけど助かった」というとても相手にとって存在をいい加減に扱おうとしている失礼な思いを投げかけるかもしれない行為なのでは無いかと、悟った経験がある、ということ。
運良く助けてもらえたとして、汚い言葉になりますがその人々との間には今の自分が変わる事が出来なかった場合「常に相手が上に立つ側である事実を受け入れざるを得ない主従関係」の人生しか待ってはいないということ、なのにそれを敢えて選ぼうとしている矛盾の姿であるという事。
そしてそんな自分を気付けない内は・・・・・それまで痛めつけられボロボロになった自分自身を見て嫌だと思っている姿とはつまるところ「痛めつけボロボロにしてきた人側の味方に回って援護を続けている自分」であったということです。
これを全て伝えようとは思っていません。でも、今のシリアスさんの「誰か助けて欲しいのに・・・・」という嘆きや悲しみ、それは人であるがゆえの悲しみでありあなただから、ではないのだという事、だから、嘆いてください。悲しんでください。
そんな事で解決になどならない事は知っていますし、それで終始しろというのではなく、「そこからしか人は始まることが出来ない悲しい生き物」なのだと思うから。
赤ちゃんが産声を上げる行為は誰かが「人が人としての生を受ける(母の胎内から離れるという事実を受け入れる)際の最初の嘆きの儀式である」と言っていました。自分を受け入れぬ内にそれを押し込める事は死に近づく行為だと思うんです。シリアスさんの今の悲しみは、それと同じであると思っています。
何を言ってよいか判らなくて変な文章になってしまいました。
ごめんなさい。解るところだけ見てくれたらうれしいです。
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