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▼kyoさん:
こんばんは^^
「支え」「支柱」「共有」だと思います…
「生きる継続」というのは、自分で自分を支えること・他の誰かが誰かを
支えていること・そして自分が誰かを支えていること、だと思っています。
(私は)ここでは使命とかそういう範疇の意味はあえて込めていません…
「ふい」に自殺を抱いた時、多くの場合、その何かしらの「支え」「支柱」
「共有」が片一方だけ喪失していることに気づく事がありました…
あえて「孤独」を選んだ「死」は、やっぱり「孤独」で、
たとえば、誰かの為に選ぶ「自殺」(助けるということではなく)でも、
自分本意な考えであって、やっぱり片一方の「支え」を喪失していることに
なります。
昨日たまたまTVで、映画「半落ち」がありました…
主人公は犯行後、自殺を予定しますが、ある日記に目がとまり、とある「支柱」「支え」そして「共有」(共感とも)を抱き、思い留めます…
「支え」「支柱」「共有」は、それを「確認」し「安心」することで
平衡を保てると思っています。
人間も動物も、それぞれを確認しあうことで共に生きれる存在だと
感じていたりしています…
人間が、たとえば私が、何かによって「支えられている」もしかしたら
「支えられている」、ひょっとして「支えられている」…
たとえば、同じように「誰かを支えている」…(上のリフレイン…)
自分で自分を支えている…とか。
そういうことを、自分で確認出来る時。
そういうことを、何も感じずにごく普通に過ごしている時。
それは、例え苦しくても「自殺」を考えるまでには到らないかもしれません。
逆に、何かに耐えられなくなって、確認できなくなったら…
孤独になって、死を選ぶのかもしれない、そう感じたりします。
耐えられなくなって、辛くなって真っ白になったり、
絶望した時は、視界が閉じてしまって、何も感じられなくなるけれど、
その中でそのまま堪えたり、我慢したり、いい日もある、
この辛さから抜け出せる日が必ず来る、って辛抱しながら
それでも生き続けたら、閉じていた視界が開いて成長し少しでも
たくましくなって、生きれると思っていたりしています。
自殺を思い描くというのは、辛さを自覚している証拠だし、
それだけでも生きている証しだと思うのです。
でも閉じている時は、そこまで思える余裕はなかなかありません・・・
これは、他の方でも直接本人の心の中へ介入するのも難しいことがあったりします。
ただ少なくとも、自殺に到った場合、他の誰かに何らかの「支え」
「支柱」「共有」を失わさせている事は事実だと思うのです。
>≪厳しいアドバイスもお願いします≫
>≪女性≫
>≪20代≫
>分かり切ったような質問をするんですが、どうしていけないんでしょうか?
>もちろん、大事な人が自殺したら悲しいのは当たり前だと思います。
>
>私は、いつ死んだって構わない、この世に未練はないという気持ちはありますが、
>自殺という行動には移す気力は全くないのです。早く寿命来ないかな…とは思うんですが。
>
>でも、自ら命を断とうとする本人は、どうしようもない絶望感と苦しくて苦しくてどうしようもなくなり、これ以上生きていくのが耐えられなくて自殺という手段を選ぶのだと思います。こんなに苦しいのに回りからは「自殺はいけない、生きろ」と言われ、「こんなに辛くて絶望しかないのにまだ辛い思いをしなきゃならないのか?生きなくてはならないのか?」と感じるのだと思います。
>
>
>どうして自殺がいけないのでしょうか?
>
≪規約同意済み≫
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