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▼さとみさん:
>≪厳しいアドバイスはご遠慮ください≫
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私は比較的長い人生を生きて来ているし、障害者の施設訪問も何度も体験し、老人施設訪問も何度も体験しています。また、障害者の友人や知人も何人かいるので、平均的な人達よりも障害者とも普通にコミュニケーションもできているだろうと思います。
今ではそうですが、こういう私も子供の頃を思い出すと、脳性マヒの知人を見てからしばらくは、やはりとまどいと、奇異の目で見ていたと記憶します。この方は、実際には脳の中の筋肉の動きを司る部分にマヒがあり、そのために、体中の筋肉の動きを健常者のようには制御できないという障害者でした。
体中の筋肉のコントロールができないので、目の動きや焦点も「普通」ではなく、よだれも流しっ放しで、身体中がねじれたような体形で、歩くのも困難な状態でした。話をするのも、ゆっくり話をしているような声が聞こえるけれど、意味のあることばなのかどうかもわからない状態でした。そういう人の実際の状態については、当時子供だった私は、まったく無知でした。近付いてはいけないようにも感じました。じろじろ見ることは失礼だというぐらいは知っていたので、横目でちらちら見ていました。
そのように、見た目には、平均的人間よりも数段劣るように見えていたこの人は、実際には頭も良く、いろいろな知識も深く、文章も書いてよく発表していました。地元の大新聞にも何度も投稿したのを私も読みました。彼の書いた文章を読んで、私は彼が特別な人であることを知りましたし、外見だけではその人の人間としての質は分からないものだということも充分に理解できたと思います。
そのような縁があったからか、そのご、何度も精神薄弱児施設を訪問して交歓会に出席して子供達と遊んだり一緒に歌を歌ったり話をしたりということをいくつかの施設で何度か経験しました。また、かなり重度に見える肢体障害者と友人関係になりました。死期の近い病弱の老人のための施設の訪問も定期的にしていたこともありました。
ただ、私のような体験をしたことのない人にとって、障害者との接触は非常に稀なのが現実だろうと思います。私もそのような人々と場を共有する機会がなかったとすると、脳性マヒの障害者を初めて見たときの状態が続いていただろうと思います。
私はアメリカ在住です。日本での生活よりも長くなりました。英語を母国語とする人達の中には、外国人(英語を母国語としない人々)の英語のレベルが、即その人の知的レベルだと思ってしまう人も少なくありません。そういう人は、英語のレベルがまだ低い外国人に対して、よく子供に対するような言い方をします。英語のレベルが低いと、言語障害者または知的障害者として扱われているのでしょう。
身体障害者も知的障害者も、その家族や友人や介護担当者などが、障害者と一緒にもっとどんどん公の場に出て、障害者と健常者(!)との触れ合いを盛んにする必要があるように感じます。無知では真実を隠してしまいます。理解するには交流が一番でしょうし、知識のある人による分かりやすい説明も助けとなるでしょう。
日本に比べると、アメリカでは障害者を多く見かけます。車椅子でショッピングしている人も珍しくありません。私も、その人が戸惑っていれば、他の人が戸惑っているときと同じように、「何か私にできることはありませんか?」と話し掛けますが、普通にしているときは、こちらも普通にして、目が合えば挨拶するぐらい、そこから世間話になればそれも軽くするような感じでいます。
やはり「知識」と「理解」と「慣れ」が必要なのだろうと思います。それができるのは、障害者自身と障害者とともにいる機会の多い人々でしょう。
≪規約同意済み≫
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